性善説と性悪説、どちらが正しいか(2)

前回では、性悪説よりは性善説をとった方が、希望が持てるというようなことについて、述べました。さらに続けます。

 世の中の人たちが全員、本質的に悪の心を持っているとしたならば、お互いに人が信用できなくなり、猜疑心に満ち満ちたそしてギスギスとした世の中となって、調和のとれた理想社会を実現していくことは永遠に不可能となるでしょう。

憎しみ合った結果どのような社会が現出するでしょうか。

我々は人と憎しみ合うために生まれてきたのでしょうか。そうではないと思います。

性善説を持ってこそ皆で協力し合ってすばらしい家庭、企業、国家、世界を築いていけるのではないでしょうか。

 「自分を、悪人と思っている悪人はいない」といわれています。

たいていの犯罪者は、「あくまで自分の行為は正しかった。ただ、自分の身を守っただけである。自分は犠牲者だ。」と言うとのことです。

犯罪者でさえ、自分自身のことを、本当の悪人とは、思いたがらないようです。

これは何故かといえば、以前にも述べたことがありますが、「人の最も強い欲求は、他人から評価されること、つまり自己の重要感を満足させることに対する欲求である」ことと、無関係ではないようです。

つまり、悪人であっては他人から認められ、評価されることがないからです。

この「自己の重要感」は、人間の持つ、最も本源的ともいえる欲求である、といわれています。

これを裏返せば、人は誰でも、本質的には、善を求めるように、できているように考えられます。

 しかしながら、人の本質は善であるにしても、人は神様みたいに完全ではないので、実際には一時的に間違って悪いことをする場合もあります。

そのような時には、人は、気付き、悔い改め等を通して、もとの善の方向へと、軌道修正していくものだと思います。

それは、ちょうど、船が傾いた時、もとに戻ろうとする復元力にも似ていましょうか。

昨今では、親の子殺しや虐待のニュースも報じられているようですが、その時点での親の心は、鬼か悪魔に近いといってもよいでしょう。

人間ではありません。動物以下です。

私は、動物の親が、その子を殺す例を知りません。

しかし、子殺しの親も、一生、鬼か悪魔の心で、生き続けることはないと思います。

導きや、悔い改めのきっかけさえあれば、本来の善の心に立ち直る可能性は高いと思います。
 
  世の名には、実際に悪いこともあるので、加害者や被害者にならないようによく気をつけておくことは当然ですが、人の本質はあくまで善と考えた方が、社会の調和や発展に対し希望が持てると思いますが如何でしょうか。


(本テーマ完)