「カラスの誤解からの学び」

1時間ほどの散歩を日課としている。

時々通る住宅地内を歩いていると、道路の中央にケガして飛べないでいる子カラスを見つけた。

 

車に轢かれないよう、道路の端に寄せるために抱え上げようとすると、鳴き声をあげ、くちばしで私の手をつつこうとした。

一瞬たじろいだが、もう一度抱えようとしたその時、後頭部に強い衝撃を受けた。一瞬何が起きたのか理解できなかった。

すぐに後ろを振り返ると、親らしき2羽のカラスが飛んでいた。

それですべてを理解した。自分は誤解されたのだと。その後、一週間ほどむち打ちのような症状が続いた。

 

最近の人間社会では、親の子供に対する無関心、虐待等がよく話題となっているが、子供を守るために命がけで体当たりする親カラスにも劣るようである。

 

今回のカラスの誤解を反面教師として反省したことがある。

自分も人の外面的な行為だけを見て安易にその善悪を判断したり、偏った見方をしたりしていないだろうか。

目に見えないその動機はいかにである。

動機を知るのはなかなか難しいが、そのためには日頃からの人間観察や人間研究などにより人間通となる努力が必要かもしれない。

また、国同士の争いごとも、当事国の少なくとも近現代史をよく学ばないとその本当の原因や動機のところは分からないだろう。

 

後日、その道を通ったら、その子カラスはつぶれて干乾びたようになっていた。1週間後に再びその道を通ったら無くなっていた。ゴミにでも出されたのだろう。かわいそうなことをした。

「認識力を高めるには」

以下は、司馬遼太郎の小説からの抜粋です。


「欲深な者は欲のためによく働きはするが、しかし欲に気がとられて物事をありのままに見ることができなくなり、ついに身を滅ぼす」

(播磨灘物語、司馬遼太郎)

「おごる心があれば、見えるべきものも見えなくなります」

(箱根の坂、司馬遼太郎)

「私心があっては、それに囚われて物が見えぬ。物が見えなければ、武辺はできぬ」

(播磨灘物語、司馬遼太郎)

「私情を殺せば、たいていの人の心や物事はよく見えてくるものだ」

(播磨灘物語、司馬遼太郎)

ここまでが抜粋


以上をまとめると、「欲があると物事の本質がよく見えない、真実がよく分からない」ということですが、つまり、言葉を替えれば「公平無私になることが大切である」というようなことでしょう。

自分の欲にだけに目がいき、他人やまわりの環境に目がいかなくなるため、全体像がつかめなくなって、真実や全体像が見えにくくなるのは容易に想像できます。

以前、ものごとの本質に迫り、真実を知る方法として、複眼の視点を持つことが重要であるというようなことを述べました。

複眼の視点とは:

1.時間的視点(長期、短期)

2.空間的視点(マクロ、ミクロ)

3.立場を替えた視点(相手の立場、他者や他国の立場等) 等です。

本質に迫り、真実を知る方法には、この複眼の視点のほかに上に述べた「公平無私」も追加することができそうです。

 

編集後記

世界のジョーク集より:

「ママ、ぼくのカメ、死んじゃった」

ジョニーは今にも泣き出しそうである。

母親はジョニーの優しさをいとおしく思った。

息子を慰めるため優しく声をかけた。

「いい子ね、ジョニー。カメはティッシュに包んで小さな箱に入れて、裏庭で素敵なお葬式をしましょう。その後、クリームソーダを食べさせてあげるわ。
 それから新しいペットを買いに行きましょう……」

ここで母親の声が途切れた。カメがかすかに動くのが見えたのだ。

「まあ、カメはまだ生きているわよ」

子どもは涙をこすりながら言った。

「これ、殺していい?」

「平等と格差」

最近では、よく格差社会だといわれています。


この一因が低賃金の派遣社員の増加ともいわれています。

この一番大きな理由が、自由化の一環である規制緩和の流れです。

 

一昔前までは派遣できる業種は通訳といったような特殊なものに限られていたのが、規制緩和により他の業種にも適用されるようになってきました。

バブル崩壊後の長期不況のなかで、企業は当然人件費を抑えようとしますから、賃金の安い派遣社員を使おうとします。この流れが、非正規社員の増加となっております。


ここで「平等と格差」について考えてみたいと思います。


格差社会となっているので、それでは皆平等にすればいいのかということになりますが、これはよく考えてみる必要があります。

皆平等にするという考えは社会主義、共産主義の考え方です。


不思議と今の地球の社会主義国で豊かな国は一つとしてありません。

過去もそうでしたが、今もありません。

この理由の一つは、よく働いた者も、そうでない者も平等に扱ったら、だれも働く意欲を失ってしまうからです。

人間の性として、よく働く人はだんだんばからしくなって、働かないようになってきます。

イノベーションもなかなか起こりません。

この結果、社会は成長がストップし停滞してしまいます。


また別の理由を考えてみます。


たとえば平等に全員を金持ちにしたらどうなるでしょうか。

日本国民全員が金持ちだとしたら、そのうち物価が上昇しインフレとなり、お金の価値が下がり、結果として国民全員が貧乏となるでしょう。

なかなか国民全員が金持ちになることは難しいように思われます。

貧困の平等というのはありえますが、金持ちの平等はないようです。


平等で大切な考え方は、結果の平等ではなく、機会、チャンスの平等ではないかと思います。

教育を受けるチャンス、試験を受けるチャンス、職を選ぶチャンス、出世するチャンス等々。

もし結果の平等だけを求めたら、社会全体が活力を失い、貧しい国となって、そこには貧しさの平等が実現するでしょう。

ある程度の格差はやむを得ないと思います。


皆を自由にしたらどうしても格差は生じてきます。

しかし社会全体としては成長、発展するでしょうから、その中で相対的に貧しい人でも、豊かな社会の恩恵にあずかるわけです。

ただ、どうしても、いろんな事情で働けずに貧しい人も出てくるでしょうから、そういう人たちには救いの手を差し伸べる必要があります。


しかし、行き過ぎた格差社会は問題です。格差社会で問題なのは、働いても、働いても、なかなか楽にならない構造になっていることです。

一生懸命に努力してもなかなか報われないというのは問題です。このままいったら社会が停滞するのは目に見えています。

やはり努力したら、努力しただけの結果が出る社会にしなければなりません。

そうであってこそ、みなやる気が出てきて、社会が活性化するでしょう。

 

行き過ぎた格差社会は、政治、経済レベルで解決できるものと思われます。

 

「逆境への対処法(2)」

前回では、逆境という苦しみを乗り越えると、人生のちょっとのことではへこたれない強い人間となり、その逆境の中から教訓を得て知恵や洞察力が深まることにより、器の大きな人間となって、その喜びも一入となるということを述べましたが、 また逆境から得た教訓をもとにして、同じような問題に悩む人たちを教え導くこともできます。

逆境を悪と考えず、足腰を鍛える材料であると考えることです。

いわゆるプラス思考で考え、積極的に生きていった方が人生は開けてくるようになります。
この意味において運命は変えていけます。

 

人生には必ず、各人に数多くの大なり小なりの逆境が与えられるということには、「人生の意義とは何か」という疑問に対する、一つの解答のヒントが隠されているのかもしれません。

人生とは人を鍛え上げる道場みたいなものかもしれません。

 

そして、すでに多くのものが与えられていることに感謝しつつ、よい心を持って、人のためになることをしていけば、将来はきっと実りある収穫が得られることでしょう。

積極的で明るい心を持って逆境を乗越え、また人のためにも生きることです。

それは自分が向上していく道でもあります。

 

最初から非凡な人生を生きることは誰にでもできることではありません。

しかし、平凡な人生を積重ねながら、前向きに努力して生きたならば、最終的には平凡が非凡となる可能性が高いでしょう。

おそらくは、人に尊敬される徳ある人格高潔な人物となっていることでしょう。

それこそ付加価値人生を送ったといえます。

人のためにお役に立てたことが大きければ大きいほど、より付加価値の大きい人生を生きたと言えます。

歴史上の偉人と言われる人たちはその最たるものでしょう。

どうせ生きるのであれば、自分のことだけではなくて、人のためにも生きたいものです。

 

偉人のように大きなことをする必要はありません。

自分の置かれた立場で、自分のできることから始めればよいのです。
明るい元気なあいさつからでもよいでしょう。

 

人のために生きることが取りも直さず、本当の意味での自分自身のためにもなります。

なぜなら、繰り返しますが、それが人間の本源的欲求である「自己の重要感」を満たすことになるからです。

今日からでも、意識的に人のために生きることは可能です。

 過去の事実は、同じ過ちを繰り返さないための学習材料、判断材料にはなりますが、決して変えることはできません。

 

しかし、現在をどう生きるかによって未来は変えることができます。

未来にどのような影響を与えるかは、現在ただ今をどう生きるかにかかっています。

したがって、現在の時間を大切にしなければなりません。

むだなことに時間を浪費してないか自問自答してみる必要があります。

 

「逆境への対処法(1)」

人生に逆境はつきものです。
人生の途上では、ほとんどの人が必ず、苦難、困難といった逆境に遭遇いたします。
運命といえば運命でしょうが、それから逃れようとしても本当の解決にはなりません。

次々と逆境が襲ってまいります。
その場合に必要なことは、逆境から逃げることばかり考えるのではなく、受け入れてしまうことです。

一種の居直りです。逆境を乗越えてこそ人は強くなれます。
逆境に押し潰されないことです。
障害物のハードルは飛び越えるためにあります。

飛び越えてこそ筋肉は鍛えられます。
人生の途上に全くハードルがなく、楽な人生を送ったとしたなら、その人はどのような人物になるでしょうか。

人から尊敬されたり、賞賛されたり、高い評価を受けたりする人格高潔な人物になるでしょうか。
そういうことはあり得ないでしょう。
これでは以前述べたような、人が本源的に持っている、「重要人物になりたいという欲求」を満たすことはできません。

しかし、一生懸命に悪戦苦闘し、努力して逆境を乗越えた暁には、人生に対する抵抗力が一段と身に付き、知恵や洞察力も深まり、より成長した自己を見出すことができるでしょう。

ひと回り大きな人物となるでしょう。
これは何ものにも替えがたい喜びとなります。

苦労したあとの喜びは格別です。

ある年のお盆休みに墓参りのため、家内の実家に近いお寺に行きました。
お寺の入り口の掲示板に白い紙が貼ってあり、何か墨で文字が書かれていました。

近づいてよく見ると「苦しみは喜びの深さを知るためにある」と書かれていました。
なるほどと感心いたしました。
別の言い方をすれば、これは「苦しんでこそ本当の喜びが分かる」というようなことです。

感心すると同時に、これと似たようなものとして、スイスの思想家カール・ヒルティ(1833~1909)が述べた「前もって働いていない休息は、食欲のない食事と同様で楽しみがない」を思い出しました。
これはつまり「働いてこそ、休日の本当の楽しさが分かる」というものです。

いずれも「苦しみ・喜び」、「労働・休日」のように相反する語の一方が他方を際立たせるという点で似通っています。

(次回へ)

「小さな発見の喜び」

ちょっとしたことに気づいて何となくうれしくなった経験をした方も多いかと思います。

例えば、私の場合を述べてみます。ここ20年あまり、毎朝1時間ほどの散歩の習慣があります。高血圧、高脂血症、高血糖、いわゆる生活習慣病を
持っていたため、これを改善するために始めたわけです。今では生活の一部となり定着しております。

三日坊主に終わらなくて、このように長く続けられるのは、生活習慣病持ちということも大きな理由の一つですが、一番大きな理由は、長続きさせるコツとして、ある人から教わった「①できることを、②できるときに、③むりなく」を実践したからだと思います。

また、この散歩コースとして、飽きがこないように5つほどのコースを持っています。

この中には大きな新興住宅地内を通るコースも入っています。散歩をしているときには、いろいろと考えごとをすることも多いのですが、何も考えていない全くリラックスしたような状態のときもあります。仏教的にいえば無我の境地に近いのでしょうか。

このようなときにふと気づくことがあります。例えば、何年も前のことですが、この新興住宅地内を歩いているときです。秋も深まった頃で、朝は多少寒くなってまいりました。

ふと足元を見ると、枯れ葉がたくさん落ちているのに気づきました。
あらためて周りを見てみると、道路に沿って木がたくさん植えられていました。

掃除も大変だろうなと思いながら、歩いていると、アッとする瞬間がありました。
「秋」は英語では「autumn」といっていたな。

まてよ、もうひとつ別の「fall」といういいかたもあったな。確か「fall」には「落ちる」という意味もあるな。

「秋」を英語では「fall」というのは、ひょっとしたら秋になったら枯れ葉がこのように木から落ちることに由来するのではなかろうか? 

これが瞬間に思ったことでした。きっとそうに違いないとワクワクしながら家に帰り、さっそく辞書で確かめてみました。有りました、有りました、
「秋をfallというのは、落ち葉(fall of the leaf)から来ておりアメリカ英語で一般的である」というようなことが書かれていました。

この由来について知っている方は多いとは思いますが、自分は知りませんでした。

人から教わったわけでもなく、本から学んだわけでもなく、自分の力で気づいた喜びは何ものにも換え難いものです。いつまでも記憶に残るものです。

何年経ってもあのときの小さな発見のよろこび、何ともいえない幸福感が持続しています。
これは仏教でいうところの悟った瞬間の喜びに近いのでしょうか。

人生にはいろいろと不幸や苦難、困難はつきものですが、できるだけ幸福感を多くするために、できるだけ小さな発見やあらたな気づきに喜びを見出すように努力するのも一つの知恵かなと思います。

 

「人の痛みが分かるようになるには」

少し前まで、よく人生における勝ち組、負け組というあまり好ましくない言葉を耳にしたことがあります。

何をもって勝ち組、負け組を決めているのでしょうか。
その判断基準は一体何でしょうか。

おそらく、会社での立身出世や、社会的な地位、名声の獲得、あるいは大金持ちになるということでしょう。

しかし傍からみてあの人は勝ち組だと思ったとしても、本人はそう思っていないかもしれません。会社だったら、もっと出世したかった、できれば社長にまでなりたかったのになれなかったので、自分は不幸だと思っているかもしれません。

また、社長になったらなったで、家庭生活をいままでおろそかにしてきたので、家庭崩壊の寸前にあって、心が休まることがない人もいるでしょう。

傍からみてうらやましいと思われる人も、本人自身は必ずしもそうではない場合があります。

金持ちになったらなったで、心配ごとが増え、遺産相続などで身内同士の葛藤が生じたりします。

一方、傍から見て、あの人は負け組だといわれる人が、本当に不幸かどうかは分かりません。

会社人生で、それほど出世しなくても、自分の器相応に出世もし、家庭も円満で、地域活動等もしていたため、退職後も人との触れ合いがあり、心のうちは幸福感で満たされているかもしれません。

要するに勝ち負けの基準はいろいろあると考えた方が正確でしょう。
幸福か不幸かは自分自身が決めるものです。他人が決めるものではありません。

結婚できなかったと嘆く人もいれば、結婚したばっかりに、夫との葛藤で悩む人もいます。
子供ができないと悩む人もいれば、子供の非行に悩む人もいます。

傍からみて、気の毒だと思われるホームレスの人の中にも、自分は気楽にこうしているのが一番いいという人もいるとのことです。何がいいかは一概にはいえないようです。

人生を一本調子で昇っていく人はきわめてまれだと思います。山あり谷ありです。

この時どのような考え方をしていったらいいでしょうか。

つまりいわゆるプラス思考でいった方がよいでしょう。
そして、人生の途上では勝ち組と負け組の両方の立場を経験した方がよいでしょう。

特に逆境を乗り越えると人の心の痛みが理解できるようになります。
そうすれば、他人の気持ちがよく分かる人間となります。

つまり人が理解できるようになって、人が望んでいるものが分かるようになります。
その結果、人が望んでいるものを的確に提供できるようになります。

これが、商売にしろ、他人へのアドバイスにしろいろんな面で有効にはたらき、商売の繁盛や人から尊敬されたりして自分なりの成功となっていくでしょう。

これが本当の意味での人生の勝ち組といえるかもしれません。

他人に勝ったということではなく弱い自分に打ち克って、その結果、幸せを得たということでしょうか。