人には4つのタイプがある。(3)

前回はタイプ2の「自分に甘く、人にも優しい」タイプについて述べました。

今回はタイプ3の 「自分に厳しく、人にも厳しい」タイプについて述べます。

自分に厳しく、欲に振り回されることなく、自分を厳しく律していく生き方、
すなわちストイックな生き方は、人は甘きにつきやすいからこそ傍からみて尊敬に値します。

しかしその生き方を他人に押し付けてはいけません。

その人の側にいるといつも厳しいことばかりを言われると、人は離れていってしまいます。

何かをしようとする時にも協力者はそれほど集まらないでしょう。

いざという時にも誰も助けてくれません。従って、大きな成功はできないということです。

人は理屈だけでは動かないということを知るべきでしょう。

人が動く理屈とは損か得かの利害と、正義か不正義かといういうようなことです。
しかし人が動くのは情の部分もあります。

その人の生き方、考え方に感動、感銘して、協力する場合もあります。

その人の無私なる目標達成のために協力する場合もあるでしょう。

本テーマ次回に続く

人には4つのタイプがある。(2)

前回はタイプ1の「自分に甘く、人に厳しい」タイプについて述べました。
今回はタイプ2の 「自分に甘く、人にも優しい」タイプについて述べます。

このタイプの人はひとことでいえば、成長、発展がありません。
それは自分だけではなく、人もだめにしてしまいます。

このタイプは親子あるいは教師と生徒の間で発生しやすいようです。
ただ優しいだけ、甘やかすだけでは人をだめにしてしまうことがあります。

努力精進を放棄してしまう面があるからです。本当にその人のことを思うのであれば、優しさの中にも厳しさが必要な場合があります。

 例えば、親子の関係で、子供がTVゲームが好きだからといって、勉強をそっちのけで好きなだけさせていると、今はよくても勉強ができなくなって、将来困る事になるでしょう。

その子の将来のことまで考えたうえで、今は多少TVゲームを制限してでも勉強させるのが本当の意味での優しさといえるのではないでしょうか。

自分自身も甘い考え方で生きていけば、努力を怠るために、いつか堕落してしまう危険性があります。

これではとうてい成功の見込みはほとんどないでしょう。
そうなれば、幸福であろうはずがありません。

こうなるのが分かっていて、こうした生き方をよしとするかです。

本テーマ次回に続く

人には4つのタイプがある(1)

人を優しさ、厳しさの面から分類すると4通りに分けられるようです。

4回シリーズでこのテーマで話していきたいと思います。

人のタイプには4通りあります。
自分自身も含めて、人はどうしても自分には甘く、人には厳しくなるようです。

例えば自分に都合のよいように考えるのもそうだし、自己中心的な考え方もそうでしょう。

組み合わせは
1.    自分に甘く、人に厳しい
2.    自分に甘く、人にも優しい
3.    自分に厳しく、人にも厳しい
4.    自分に厳しく、人には優しい
の4通りがあります。

今回は.タイプ1の「自分に甘く、人に厳しい」について述べます。

いままでの人間観察からみると、自分自身も含めて1番多いのはタイプ1のようです。

例えば、規則は自分が決めておいて、メンバーにはそれを守ることを強制しておきながら、いざ自分のことになると、ちょっとぐらいまあいいかということがあるでしょう。

職場などで、「あいさつは明るく元気に」と決めていた場合、自分のことはさておいて、人があまり実行しないのを往々にして批判したりします。

「電話が鳴ったら、すぐにとること」と決めておきながら、自分からはなかなか取ろうとはしません。

「出張の時はできるだけ公共の交通機関を利用すること」と決めておきながら、他人には強制するくせに、自分の場合には楽なものだから、ついタクシーを使ってしまうということがあるでしょう。

皆さんも似たような経験をされたことがおありでしょう。

また、物事を自分中心に考える人もこのタイプに含まれるかも知れません。

他人のことはさておいて、自分に都合のよいように考える人は一種のわがままかもしれません。

こういう生き方をずっと続けていったならば、どうなるでしょうか。

こういうひと達を見て、皆さんはどう思われるでしょうか。

他人はよく見ているものです。

職場などで上司が、部下には厳しいことばかりを言っていて、自分は楽をしているのであれば、反感を買うようになるでしょう。

いつかしっぺ返しがくるかも分かりません。

これではとうてい人はついてきません。いざという時にも助けてくれません。

とうてい人に好のましく思われたり、尊敬されるような人物とはならないでしょう。

それでもいいというのであれば話は別ですが。
 
本テーマ次回に続く

ひとは欲で動く

「ひとは欲で動き名誉心もまた欲望の上に載っかっているということを、いわばひどく質朴な哲学ながら、かたくそれを持していた」(播磨灘物語司馬遼太郎より)

今回は欲について考えます。

欲といえば、あまり響きがよくないかもしれませんが、確かに、世の中は大半が欲で動いているのかもしれません。

だれかが「欲は生きていくためのガソリンのようなものである」といいましたが、そういう面はあると思います。大きなものとして食欲、睡眠欲、性欲、生存欲があります。
 また、金銭欲、偉くなりたい、有名になりたいという出世欲、名誉欲、自己顕示欲、あれも欲しい、これも欲しいといった物欲などがあります。

忙しい人は、休みが欲しい、日常から離れ、どこか旅行に行きたい、といったような欲があるでしょう。

確かに、欲は個人が生きていくためのエネルギーであり、法人格を持つ企業活動などもそうでしょう。
これがなければ、活発な個人、社会の動きはないかもしれません。

世の中はガソリン切れで停滞してしまうでしょう。
ただ、その欲の発揮のしかたが問題です。欲望のままに動いたら、とんでもないことになることは想像に難くないでしょう。

欲望の度が過ぎないように時々は自戒する必要があります。

身の丈以上を望まないことです。ときどきは足ることを知るということを考えてみることも自戒する意味で効果があるかもしれません。

そして、欲望のためなら手段を選ばないというやり方も問題です。
そのやり方が人に迷惑をかけず、法に触れなければいいのでしょうが、大抵は法に触れるか、スレスレのところではないでしょうか。

企業の粉飾決算インサイダー取引、食品の偽装表示、産地の偽装表示、違法な贈収賄、教員採用試験での口利き、製品のトラブル隠し、脱税、詐欺、恐喝、性犯罪、出世のための他人の足の引っ張り合い、誹謗中傷等々。

欲は大切です。これがなければ、個人の成長、社会の発展もありません。

ただ欲は放置すると増大していくため、よくコントロールすることが、個人においても、企業においても、社会においても大切だと思います。

ただ人は欲だけでは動かないということも事実です。
以前述べたことがありますが、ひとは理屈だけでは動かないということを述べました。

自分には不利だと分かっていても、情や義理から動く場合もあります。


本テーマ完

性善説と性悪説、どちらが正しいか(2)

前回では、性悪説よりは性善説をとった方が、希望が持てるというようなことについて、述べました。さらに続けます。

 世の中の人たちが全員、本質的に悪の心を持っているとしたならば、お互いに人が信用できなくなり、猜疑心に満ち満ちたそしてギスギスとした世の中となって、調和のとれた理想社会を実現していくことは永遠に不可能となるでしょう。

憎しみ合った結果どのような社会が現出するでしょうか。

我々は人と憎しみ合うために生まれてきたのでしょうか。そうではないと思います。

性善説を持ってこそ皆で協力し合ってすばらしい家庭、企業、国家、世界を築いていけるのではないでしょうか。

 「自分を、悪人と思っている悪人はいない」といわれています。

たいていの犯罪者は、「あくまで自分の行為は正しかった。ただ、自分の身を守っただけである。自分は犠牲者だ。」と言うとのことです。

犯罪者でさえ、自分自身のことを、本当の悪人とは、思いたがらないようです。

これは何故かといえば、以前にも述べたことがありますが、「人の最も強い欲求は、他人から評価されること、つまり自己の重要感を満足させることに対する欲求である」ことと、無関係ではないようです。

つまり、悪人であっては他人から認められ、評価されることがないからです。

この「自己の重要感」は、人間の持つ、最も本源的ともいえる欲求である、といわれています。

これを裏返せば、人は誰でも、本質的には、善を求めるように、できているように考えられます。

 しかしながら、人の本質は善であるにしても、人は神様みたいに完全ではないので、実際には一時的に間違って悪いことをする場合もあります。

そのような時には、人は、気付き、悔い改め等を通して、もとの善の方向へと、軌道修正していくものだと思います。

それは、ちょうど、船が傾いた時、もとに戻ろうとする復元力にも似ていましょうか。

昨今では、親の子殺しや虐待のニュースも報じられているようですが、その時点での親の心は、鬼か悪魔に近いといってもよいでしょう。

人間ではありません。動物以下です。

私は、動物の親が、その子を殺す例を知りません。

しかし、子殺しの親も、一生、鬼か悪魔の心で、生き続けることはないと思います。

導きや、悔い改めのきっかけさえあれば、本来の善の心に立ち直る可能性は高いと思います。
 
  世の名には、実際に悪いこともあるので、加害者や被害者にならないようによく気をつけておくことは当然ですが、人の本質はあくまで善と考えた方が、社会の調和や発展に対し希望が持てると思いますが如何でしょうか。


(本テーマ完)

性善説と性悪説、どちらが正しいか(1)

 今回より2回シリーズで本サブテーマについて話してまいります。

 人をみるのに、二通りの見方があります。

性善説性悪説と言われているものです。

性善説とは、人間の本性を善とみる説であり、すべての人間の心には善へと向かう方向性が内在するとしています。

一方、性悪説とは、人間の本性を悪とみる説であり、放っておくと悪いことばかりするようになるので、教育・訓練等により、矯正していかなければならない、としています。

「人間罪の子」の思想も、性悪説と通じるものがありましょう。

何人かの人たちに、あなたはどちらの説をとるか、と尋ねたことがありますが、性悪説の人が過半数でした。

バブル崩壊後の長引く不況も、その一因となっているかもしれませんが、新聞、テレビ等では、毎日のように犯罪のニュースが報じられています。

最近では、政治家や役人の贈収賄、企業ぐるみの隠ぺい工作、あるいは保険金目当ての殺人等が、目立つようです。

こうも、悪いニュースが多ければ、人間不信に陥って、性悪説をとりたくなるのも、無理もないかと思われます。

私はどうかといえば、性善説をとっています。

この理由について、私なりの見解を以下に述べていきたいと思います。

ほとんどの親が、自分の子供は、可愛いと思っているものです。

たとえ、世間から非難されるような悪いことをしても、自分の子供は、どうしょうもない本当の悪人であるとは、思っていないでしょう。

魂まで腐っているとは、思いたくないでしょう。何とかして、立ち直らせようとするでしょう。

動物でさえ、親は、自分の子を慈しむものです。

また、家族同士が、仲むつまじく生活しているのをみて、どう思われるでしょうか。

彼らは、お互いを、本当は悪人だと思い、疑いの目で日々接しているのでしょうか。

そうとは、とても思えません。

人間性悪説をとれば、仲むつまじい調和のとれた家庭は、世界中どこにも存在しないことになります。

また、企業経営の中へ、性悪説の考え方を、持ち込めばどうなるでしょうか。

従業員は放っておけば、必ず不正を行うものだ、という立場をとるため、不正防止のために、より厳しい規則・罰則や、何段階にもわたる、必要以上のチェックシステムが、採用されるようになるでしょう。

その結果、管理コストが、必要以上にかかることになり、企業の収益を圧迫することになりかねません。

また、経営者と従業員が、相互不信に陥って、まともな企業活動ができなくなり、長期的存続が難しくなるでしょう。

次回は、なぜ、人は善を求めるようにできているのか、一つの見解を述べてみます。


                     (次回へ続く)

口は一つ、耳は二つ、なぜ?(3)

 (傾聴の効果)

 そういうことであれば、意識的にこの自己顕示欲を少し押さえて、できるだけ
聞き手にまわるように努力してみてはどうでしょうか。

他人にはなかなか強制はできませんが、自分ならすぐにでも実行できることです。

 ただし、自分の経験からいっても、一時的にその気にはなっても、継続することは
なかなか難しいことです。ではどうすればよいか。
 
 継続させるためには「すべての人から貪欲に学ぶ」という精神的態度を
把持することであると思います。

どんな人からも学ぶべき点があります。

各人にはそれぞれに長所、短所があるのでそれらを学びの材料とすることです。

人間研究の一環であると考えることです。
 
 そうすることにより、自分自身が一回りも二回りも大きな人物となっていきます。

傾聴は自分自身のためにもなるのです。
 
 自分が聞き手にまわることにより、話し手は認められた理解してもらえたと満足し、
あなたに対し好感を持つようになるでしょう。

悩みなどを最後まで聴いてあげるだけで相手はすっきりするというのは本当です。

これはカタルシス効果とも呼ばれています。私も両方の立場での経験をしたことがあります。
 
 また、人は他人の話を最後まで聞こうとしない性向を持っていますから、それを逆手にとって、人に話す場合には、できるだけ短く、しかも結論から先に話すようにすれば効果的です。
 
 そして相手が関心を示してきたら、じっくりと話せばよいでしょう。

そのためには、話す前に、頭の中で話す内容を、相手が関心を持つようによくまとめておく必要があります。関心がなければその話題はやめてしまえばよいでしょう。
 
 傾聴は人間関係をよくするひとつの方法でもあります。人間関係をよくするにはお金は全くかかりません。

 「口は一つ、耳は二つ」なぜか? 

「自分がしゃべるよりも、人の話をよく聴くため」といわれています。

ここに何か人智を越えた巧妙な神しくみといったものが感じられます。

 

本テーマ完